Return to site

夏目漱石『こころ』再考

Insania

·

先日、とある本屋のこんなコーナーの前で、ふと足を止めた。

夏目漱石の特集である。

そして、このコピーに思わず目を引かれた。

「漱石はいつも新しい」

良い文学作品とは何だろうと考えた時、この「いつも新しい」というのはその一つの条件であると思う。年齢を重ね改めて読み直すたびに、何度でもまた新たな感慨を与えてくれるのだ。

年齢や経験を積んできた読み手の、その「読み」に何度でも斬新性をもって応えてくれるのである。言い換えるならば、作品と読み手のその相互の主体性の衝突に、常に耐え得る作品であるとも言える。

何歳で読もうが、毎回新しい発見をもたらしてくれるということ、それはつまり、人間の根底的でラディカルな問いかけを多分に含んだものである故だと言えるのではないだろうか。

そんなことを考えながら本屋から帰宅し、ふと漱石の『こころ』を再読してみたのである。古来より教科書にも採用される組み尽くされた作品ではあるが、私は改めて衝撃を受けた。初めて読んだのは恐らく18〜19歳の頃であったと思うが、当時の私には見えなかった、また新しい様相を呈してくれたのである。

誰もが読んだことのある作品だと思われるが、一応簡潔にあらすじを記しておこうと思う。

少年が鎌倉の海岸で出会った男性は、いつもどこか寂しげだった。少年は、その男性のことを「先生」と呼ぶようになる。父親の見舞いで故郷に帰省していた少年は、先生から届いた自殺を思わせる手紙を抱えて東京行きの汽車に乗り込む。

その手紙には、先生の悲しい過去の告白が綴られていた。

 

先生は学生時代、下宿先のお嬢さん(後の先生の奥さん)に、ひそかに恋心を抱いていた。

しかしある日、先生の親友であり同居人のKが先生に対して、「お嬢さんに恋をしている」と告白する。先生はそんな純粋無垢なKを裏切り、裏でお嬢さんに結婚を請い、許諾される。気まずさを覚え、先生はKにこのことを言えないでいた。そして、先生とお嬢さんの結婚を知ったKは自殺。

Kを裏切り、失望させ、自殺へ導いたという自責の念は、最終的に先生本人を死へと誘う。カルマに縛り殺されていく人間の「こころ」を描いた、日本文学史上の金字塔。

初めて読んだ時、私も多くの解説書等が記すような額面通りの感想を抱いた。

友人を裏切り己のエゴを貫いた結果、奥さんこそ手に入れたものの、その罪悪感に苛まれ結果的に自殺してしまった男の物語。

この三人の人間関係がテーマだと思っていたのだが、今回読んで全く違う感想を抱いた。

それは、この物語は「三人の三角関係」を描いたものではなく、「一人の人間の内面的葛藤」を三人の人間関係という図式によって描いた物語なのではないか、ということである。

漱石が生きた、明治という時代に思いを巡らせてみる。長い封建的な時代が終わり、近代的な個というものの重要性が謳われ始めた時代。それまでの絶対的な君主はいなくなり、これからは己が己の君主にならなければならないという、西洋的、近代的個人主義が打ち立てられようとしていた時代である。デカルト以降の近代という時代において、最も重要視されたものは何か。理性である。それまでの君主に変わって、理性によって己を律していかなければならない時代がくる。当時世界一の文明先進国であったイギリスへと留学し、近代という時代の到来を肌で感じ、尚且つ先見の明に優れた漱石には、そういう景色が見えていたのではないだろうか。

「精神的向上心のない者は馬鹿だ」という台詞に表されるように、遊ぶことや異性に恋することに興じているような人間は、精神的に向上心のない馬鹿であり、人は古典から人生を学んだり、自己修養に励んだりすべき存在なのだ、と考える友人の(K)という人物は「理性」的存在として考えることができる。

道のためには凡てを犠牲にすべきだと云うのが彼(K)の第一信条なのですから、摂慾や禁欲は無論、たとい慾を離れた恋そのものでも道の妨害になるのです。

対称的に、Kからお嬢さん(後の奥さん)を愛しているという告白を受け、様々な手立てを使ってそれを阻止し、お嬢さんを何とか自分のものにしようと奔走する先生という人物は、「狂気」的存在として考えることができる。

Kが理想と現実の間に彷徨してふらふらしているのを発見した私は、ただ一打で彼を倒す事が出来るだろうという点にばかり眼を着けました。そうしてすぐ彼の虚に付け込んだのです。〜自分に滑稽だの羞恥だのを感ずる余裕はありませんでした。〜Kの前に横たわる恋の行手を塞ごうとしたのです。

つまりこの物語のメタファーは、狂気(先生)によって理性(K)が殺されれば、その罪悪感が募り狂気(先生)も最終的に滅びる、というものである。

そのような意味で、この物語は一人の人間の内面、理性と狂気が葛藤し続ける一人の人間の「こころ」の在り方を、男女の三角関係という図式で描かれたもののように私には思えるのである。

それまでの封建制度において君主の命令は絶対であり、その君主のためならば命さえ捨てるというのは狂気以外のなにものでもなく、いうなれば、それはこれから迎えるであろう理性の時代とは対称的なものである。

近代的個人主義は、君主による統治に代わって個人に自由というものをもたらすが、それは理性によって己を統治することができなければ、人間は簡単に崩壊してしまう時代が来るということをも意味する。

漱石はこの『こころ』に、そのような警句をも込めたのではないだろうか、という気がしてならないのである。

近代的自我を確立した個としての我々は、「理性」によって「狂気」を制するべき存在だ。

「狂気」>「理性」の構図となれば人は崩壊する。

『こころ』を、一連の物語として結末までを読めば、これは疑いようのない「自明の理」であると俯瞰して眺めることが出来る。

しかし、現在進行形でしか生きることの出来ない現実世界において、果たして人はどこまでその「自明の理」を厳密に遂行できるのであろうか。

異性への恋愛感情をどこまで理性によって割り切れるのだろうか。

Kが自殺してしまうなど、想像出来ただろうか。

いま自分が「先生」の立場になったらKに譲れるだろうか。

もしかしたら、Kは自殺などしないと自分に都合よく考えてしまうのではないだろうか。

人が確実に把握出来るものは、すべてそれらが「過去」のものになった時であり、我々には明日さえも分からないのである。

漱石が描いたのは、現在進行形で進んでゆく、紛れもない人の『こころ』の「現実」であり、近代的自我・近代的個人という単なる「観念」に留まるものではない。

良い文学作品というのはいつも、この「観念」と「現実」の、すれすれでの葛藤を描いてくれる。

それは人間のラディカルな問いかけであるがゆえに、色褪せることはない。

数年後に改めて読み直すときには、こちらの重ねた年齢と経験に合わせて、また新たな様相を呈してくれるのではないかと思う。

これはあくまでも、一読者の独断と偏見による解釈である。

Soflan Daichi

2017.2.11(Reblog)

All Posts
×

Almost done…

We just sent you an email. Please click the link in the email to confirm your subscription!

OKSubscriptions powered by Strikingly